昭和48年01月11日 朝の御理解



 御理解 第47節
 「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ。」

 信心をさせて頂いて分からせて貰う事は、どの様な場合であってもいつも神様という事が、先行しておらなければならないという事です。例えば病気を致しましても、さぁ医者だ薬だと言うて、神様と言うのではなくて、やはり神様、神様それが先行しなければいけない。それが先でなからなければならない。そして医者であり薬であるという事。此処に薬れ祈れにするから、おかげにならぬと、こう断言しておられますね。
 これはさぁ医者だ薬だと言うて、神様と言う様な信心ではね、病気なら病気が治らないと言う事じゃないです。それは神様に御願いしなくったって、全然お願いしなくったって、やはり医者や薬やらで助かっておるという事実があるです。信心しておりますけれども、さぁ薬さぁ医者と言う方を先にする人もあります。それでやっぱり結構神様には後からお願いをして助けて貰っております。
 ですからここにおかげにならんと仰せられるのはね、そういう事ではね信心にならぬ、信心が育たぬ信心が進まんという事。そういう事なんだと私は思う。神様がいつも従の立場にある。お互いやはり信心が育たなければならぬ、信心が進まなければならん。おかげは頂きたい信心はこのまま、それではやはり虫が良すぎる。信心のいうならおかげの受け物も、段々大きくならなければならん。
 大きくなるからおかげも大きくなるのである。ですから例えば事という時にです、それをいうなら医者じゃ薬じゃとこう言う、又はそれを人頼りと言うか、物に頼ると言うような事ではなくて、まず神様に頼り神様に縋るという事をしてからの、薬でなからなければならん、医者でなからなでればならない。これは病気だけの事じゃないです。どんな場合であっても、いつも神様が中心であるという事なんです。その神様がいつも先行しておられなければいけない。
 信心を頂いておると例えば先日、久富勇さんがお夢を頂いておられる。お夢の中で久富正義さんの家に行っている。久富建設ですね。そして正義さんに芯からこう話しておられるのが、正義さんこういう仕事をするなら、沢山人夫さんを雇うてありますから、人夫さんの気持ちになって、仕事はしなければいかんよと言う事を、繰り返し正義さんに言うておるという事。そして今度はまたそれを、正義さんに言い終わったら、今度は人夫さんの方を向いてから言ってる。
 ああた方もね、折角ここで仕事をさせて貰うならば、久富建設の事を思うて、主人の事を思うて、仕事はしなさらなければいけませんよと言う事を、繰り返し人夫さんに言うておるというお夢であったち言う事。これは本当にですね只相手を上手に使うとかね。利用しておると言った様な事ではなくてです。そこに縁あって主従の関係を結ぶと。ならばやはり主人は使用人の人達の事を芯から、思うてやれる主人でなからなければいけない。只給料出して使っとると。
 片一方も又給料貰うとるけん、給料方働きゃよかという様な物ではなくてです。私はそういう店例えばこれが店であるとするならです、そういう店なら必ず発展すると思うのですね。主人が例えば従業員の事を、芯から考えてやれる程しの人の所じゃったら、必ずそういう親身な従業員の方達が育って来ると思うです。又その従業員が主人の事その店の事を、本気に思うて働く様な従業員なら、従業員のその人自身も必ず助かるです、そういう心掛けの人なら。と言う事を言うておるお夢を頂いたとこう言われるのです。
 そんなら皆さんご承知の様に、久富正義さんと言や合楽の信者の中では、いうなら人格も立派ですし信心も中々、実意丁寧な信心が出来ます。そういう例えば出来ておる人に、どうして神様は正義さん、本当にあんたがこういう仕事をするなら、人夫の身になって人夫の事を考えて、親身に考えてやらなければいけないと言う事を、神様は言われるのだろうか。これは正義さんという人が、人物が立派だからその仕事のやり具合と言うのが、中々人の信用を受ける生き方をやっておるから。
 取分け私は正義さんをお夢の中に、使われたんだろうとこう思います。信心しておっても、あれはと人格的に、言うならつまらん人もある訳です。例えばそれを今日の御理解に当てはめたらですね。只信心はしておるという事であってです。信心がいつも先行していないという事、神様が先に立ってござらんという事。どんな人物であってもやり方が、堅実なやり方であっても、成る程そういう風に頂いて見ると、正義さんの信心には、そういう所が感じられますですね。
 ですから例えばあヽいう、模範的な人物とでも申しましょうか。そういう人物が愈々神様を信心を先行する。先に立てると言う生き方にならなければ、此処におかげにならんと仰る。本当のおかげにならんのであり、そういう生き方をすれば、おかげになるのである。どんな場合であっても神様が中心である。いや中心であるという信心をしておるというだけじゃ無くて、信心が先に立っておる。
 私は信心の此処でおかげにならんと仰っておられるのは、例えばここん所がおかげになるとこう、又ここではおかげも早いがと言っておられます。いうならば成長が早いと信心の成長が。神様を何時も神様第一主義にする生き方にならせて貰うと、信心が早く成長する。例えばお百姓さんで言うなら、もう畑には草が一杯。その言うなら稼ぐに追いつく貧乏なしかなんかと申しますね。
 もう仕事からずっと追われ続けておる人は、百姓の下と言われておる。草が生えたからもう片っ端から、あそこは生えたけん、さぁ草取りに行くぞと言うて、草を取るのが中と言われておる。本当の百姓篤農とでも言われる様な人の所では、草の生える間がないと言われておる。私は今日皆さんに聞いて頂いておる事はね。薬れ祈れと言うこと。こういう信心者が、多いのではなかろうか。例えば正義さんの例を取りましたがです。この場合なんかは、薬れ祈れの生き方じゃなかろうか。
 だから正義さんをしてそれなんだから、お互いひとつ本気で胸に手を当ててみると、やはり薬れ祈れ、いや私はどうかある時には、一番口にお取り次ぎを頂いて、御願いをして、そしてからしかせんと言う。そういう意味じゃないですね。はぁもういちいちお取り次ぎを先に頂いてからしか、事は起こさないと言う事ではなくて、いつもいうなら信心が中心でありいつも信心が先行して、私共の事はそれに従のようについておるという、生き方の事なんです。
 ですからいうならば今日はお互いが、信心の手篤いのが真の信者じゃとこう仰るように、その信心の手篤い真の信者を目指す。いうならば篤信の私共にならせて頂きたいと言う事を、聞いて頂いているのです。中々あの人は篤信家だと篤農家だと、良く申しましょう。そんなら篤農家と言うのは、どういう事かと言うと、あそこの畑ばっかりは、草の生えたつを見た事ないと言う様な行き届いた百姓をする人を篤農と言うのです。もう寝ても覚めても、田圃の事しか考えていない。
 何時も手入れが行き届いておる。まぁここん処で誤解しないようにして頂きたいのは、そんなら今日は、久富勇さんの例をとりますが、もうあちらは今夫婦があのような風ですから、どの畑に行っても草が茫々だそうです。もう荒らし散らかしちゃる。田圃もそうだと。けれども、おかげを頂いてです。だから今日の御理解から言うと、百姓の下なら下という事になりましょうけれども、そういう意味ではないですね。実際は。その証拠には、例えば、この秋の取り入れの時にです。
 本当に有り難いと思う事は、収入がひとつも減らないという事、成る程草は茫々としとりますけれども。野菜はおかげ結構出来ておるという事。いうなら収穫の点においては、私共夫婦が一生懸命畑に出て、それこそ草一本生えとらんと言うごとしとる時と、今日は、同じおかげを頂いておる。決してそれはね無精でしないと言うのじゃない。出来るけれどもしないと言うのじゃない。あちらはもう信心に呆けてしもうてから、百姓も疎かにしちゃるとは違うと言うこと。
 だから形の上でそういう事じゃない事が分かりますね。いうなら勇さんの場合は信心が先行しておる訳です。まぁ厳密に言うたら只例として私共は、一つ篤信の信者にねらなければならない。所謂手篤い信者にならなければならない。信心が手篤いという事が、真の信者じゃとこう仰ってる。だから真の信者を目指さなければいけない。信者じゃあるけれども真の信者じゃない。信者じゃあるけれども篤信じゃない。
 それではね合楽で、繰り返し申しております、お徳を受けると言う事は出来ません。只何十年信心が続いておると言うだけでは、所謂薬れ祈れ的な信心が、何十年続いたって、お徳にはなれませんでしょう、おかげにはなっても。薬れ祈れにするからおかげにならんと。そういう信心がいくら例えば、続いておってもおかげにならん。それはお徳にはならないと言う事なんです。病気が治らないと言う意味じゃないです。 
 金光様にお取り次ぎを頂かなくったって、薬を飲んだり医者を先に言うてもです。やっぱり病気が治るんです。いや神様に頼んまんでちゃ医者なら医者、薬なら薬で病気が治る。だから治るとか治らないと言う事ではないと。と言う事になるですね。昨日のお月次祭の時に前講を、光昭が務めておりました。二、三日前から腕が痛いんだそうです。ですからそれにかまけて、信心の方も疎かになる訳です。かと言うてそんなら自分の好きな、ギターでも弾いておると、痛い腕が痛さを感じない。
 本当に相済まん事だと。どこか少々痛い所はあるけれども、信心の方へ心を向けときゃ、痛さを感じんという位にならなければならんのに、自分の好きな事をする時には、痛さを感じんのだけれども、普段は信心の方へ心が向いたら、途端に腕が痛いと言う様な事では、本当に相済まん事だなと言った意味の事を、話しておりました。いかに信心が矢張り好きにならなければならないか。
 この朝早ようから言うなら、貴重な時間を費やして、貴重なお金を使って、そして御参りをさせて頂いて、信心の稽古をさせて頂いておる。と言うなら有り難いのだけれども。信心の稽古に通うておるのじゃない。只おかげを頂かなければならんから、お参りをしておると言う事になる。信心の稽古に通うて来るのならならば、貴重な時間であろうが、貴重なお金であろうが、惜しい欲しいの事はあるはずがない。思いもしない。それこそ家の婆さんばかりは、合楽にばっかり参ってと言うて、息子が不平を言うた。
 そしたらそのお婆さんが、私が好きでばし参りよると思うたのち。あんたどんががこつばお願いせにゃんけん参りよるとばいと言わっしゃったという話を、隣の人が聞いた。と言うてですその事をそう言うて、笑っておりましたがです。笑うておる人その人も、やはり真実の所笑うたら、そういう所になるのじゃなかろうか。好きで有り難うしてたまらんから、御参りしおるとじゃない。好きでばし参りよると思いよるか。おかげ頂かんならんけん参りよるとと、五十歩百歩じゃなかろうか厳密に言うて。
 だから信心はどうしても、その好きにならせて貰わなければいけない。例えば篤農の人で有るならばです。もう畑の中におる事が一番の楽しみ。田圃で仕事しておる事が作物なら作物が、野菜なら野菜が綺麗に出来て行く。それが何よりもの楽しみ。高いとか安いとか、そんな事は問題じゃない。と言うのが私は篤農じゃなかろうかと思うですね。おかげを受けるとか、受けないとか問題じゃない。自分の心が所謂魂が、段々輝きを増していく、光を放って来るのが自分にも感じられる。
 だからこそ朝もなければ、夜もないと言う様な信心が出来るのです。信心が好きにならなければならん。そこでです初めから好きと言う様な人は滅多におりません。やっぱりおかげを受けなければならんから、それこそ好きでばし参っとるかと言う様な参り方の中からでもです。参ってお願いをする、おかげを頂くと言う事になる。修行させて貰うと言う事。私は例えば此の寒修行で、皆さんこうやって一生懸命御参りになる。
 さぁ今まで一人で参りよったのは、家内も、夫婦で参りよった人は、子供達までも、言うならば、頼んででも参って貰いながら、こうして寒修行が皆さん出来ておる。私はこれはですね信心が好きにならせて頂く修行だと思うですね。信心の修行と言うのは。おかげを受けるという事に、例えば願いをかけてこの一月間、頑張らせて貰うぞとそれもありましょう。けれどもそう言うあり方からで有りましても、通うておる内に信心のいうなら、有り難さと言うものが、段々身に付いてくる。
 所謂信心が好きになる修行が、言うならば、寒修行だと思うです。常日頃は御参り出来んけども、せめて寒修行の時だけなっとん御参りさせて頂いて、せめて寒修行中だけなっとと言うて、御参りをしている内にです。信心が好きになる。それこそ草が生えてから、慌てて、草を取り出すと言う所からです、段々生えたら片っ端から取って行くと言う様な生き方に変わってくる。段々そこから今度は、もう草の生える前に、手入れが行き届いておると言うようなです、信心にならせて頂く、私は修行だと思うです。
 そう言う事をです。今日は四十七節から頂いて頂きました。祈れ薬れにすればおかげも早いがと、と言う事は神様が先行されておるいつも。と言う事はです信心が好きにならなければ、出来るこっじゃありません。言うならば一にも神様二にも神様、三にも神様なのですから。何が何と言うても、信心が一番大事なのですから。それは命よりも大事なのですから。一にも神様二にも神様、三にも神様という事になるのです。そういう信心を私は篤信の信者と。所謂手篤い信者とはそういう事だと
 。信心の手篤いのが真の信者、そういう信者を私は真の信者だと思うです。それにおかげが伴うて来るというのが、これは金光教の信心ですね。どんなに信心が好きになっても、どんなに自分の心の中に、不平不足のない様な状態迄、信心が進められましても、おかげが伴わないと言う宗教が沢山有りますとですよ。仏教なんかはそうでしょう。自分の心が、いわゆる仏に向かうと、只、後生を願うと言うだけの事。
 いつも例に申します「善し悪しを捨てヽ起きあがり小法師かな」言うなら我情を捨て我欲を捨てて、仏様に向かうたら、おかげが伴うて来ないと言う事の方が、不思議と言うのが、金光教の信心なのです。仏教辺りではそれが伴うて来ないでしょうが。只自分だけが悦に入っておるという事なんです。金光教の信心はそうではない。私共が今言う様に一にも神様二にも神様、三にも神様と言った様な、手篤い信心が出来ておると、それこそおかげは要らんと言うても、ついて来ると言うのが金光教の信心なんです。
 そういう信心にです。尚且つ願って行かなければならない事が、五つの願いだと言う訳なんです。ですから本当に神様の願いが、神様の心に飛び込んだような信心です、今合楽で五つの願いと言う事が言われておるのは。言うなら神様の痒い所に手が届くような、おかげ御利益なんて言うのはもう雑宗だ。それはもう低級な信心じゃと言うてです。おかげのもう一歩前進すれば、おかげの世界に入れるのを、もうこの世でのおかげは要らん。あの世でだけ極楽に行きゃよかと言った様な信心を。
 神様がどの様に歯がゆいを思いなとるであろうか。氏子信心しておかげを受けてくれよと言うのが、神の願いなのだから。だからそんなら信心して、おかげを受けてくれよと言うのが、神の願いならば信心して、お願いをしておかげを頂こうと、言うだけではなしにです。一にも神様二にも神様、三にも神様と言う様な、篤信の信心真の信心を頂く事を、目指させて頂いてです。いうなら善し悪しを捨てて、我情我欲を捨てられる所までの、信心を頂いてです。
そしてこれは我情じゃありません、我欲じゃありません。神様の願いを地上に現して行く事の為に、五つの願いと言うのが立てられると言う事になる。そういう信心を踏んまえての、体の丈夫であり家庭の円満で有り、子孫繁盛家繁盛なのです。薬れ祈れにするからおかげにならぬ。そういう例えば、信心を先に頂こうとしないで、おかげを頂こうとする信心では、おかげにならぬ。と仰っておられる。おかげにならんという事は、商売の事をお願いしたら、お繰り合わせを頂けないとか。
 病気ならば病気が治らないという事じゃない。信心が育たないという事なんです。信心がいつも程度の低い低級な所に、停滞した信心だという事なんです。おかげにならん。信心が育たない。けれども祈れ薬れにすればおかげも早いがと仰る。信心を先行する。一にも神様二にも神様、三にも神様。そういう生き方になればですおかげも早い。信心も早く成長する。しかも信心の成長が見られる事になったらです。
 これは金光教の独壇場ですですけれども。信心が出来たらもうこれは要らんと言うても、おかげは下さるんだと。ここ辺の所を私共は言うなら、二十年間頂いて参りました感じですね、合楽の場合。願わんでも頼まんでもおかげを頂ける。金光様の御信心お取り次ぎのおかげであります。祈れ薬れにすれば、おかげも早いという信心を、先に頂いてそれを信心の基礎、基盤にさせて貰う祈れ薬れと。例えば正義さんの場合なんかを言うたら、あぁいう性格の、あぁいう信心の言うなら、実意のある人がです。
 本当にこの祈れ薬れという信心を、土台にしたら、もうそれは私が昔、申しました事ですけれども、本当に日本一になれると思うですね。けれども信心の方が先行しない。人情の方が強い惜しいですね。薬れ祈れ的な信心で、おかげを受けておると言う人が、ここではおかげにならんと仰るのは、いわば、仕事がうまくいかんという意味じゃない。信心が成長しない。所謂徳を受けられないという事です。
 それは祈れ薬れにすれば、お徳を受ける事も、早く育つ事も出来るのだけれども、薬れ祈れにするから、只いつもおかげを受けておりますという程度であって、信心が成長しない。所謂お徳が受けられない。本当の所謂篤農という事になっていない。皆さんの場合なんかはどうでしょうか。もう本当に手に付けられんごと、草が生えておる雑草が生えておるから。それを神様にお願いし乍ら、取っても取っても草の方が先に、しこって行くといった様な人も多かろうと思います。
 それでこの人の場合はと言う様な、ある一部の人達がようやく、草が生えたら片っぱしから、取っていくと言う様な程度の所の人が、合楽ではよか信者と、言われておる人の所じゃなかろうかとこう思うです。だから本当に一つ、篤信の真の信者と言う事になるとです。草を生やす暇がない程しの信心をね、頂いて行きたい。所謂真の信者と仰る、真の信者を、本気で目指させて貰うという。おかげを頂きたい。
 篤農そういう人は例えば、本当にもうこげな百姓てんなんてんな、子供やら孫んどもさせるもんじゃなか、と言う様な事は絶対言わないでしょう。もうこれこそ子供に孫に、これを譲り伝えて行く事に専念するでしょうし、又子やら孫やらもです。それならもう絶対私は、百姓は嫌と言う様な子供は出来ないと思うですね。親父がその仕事に惚れ込んでしまってるのですもの。
 よく教会でもです二代、後を継ぐ者の事が問題になります。教師にはならん。信心な教会に生まれながしない、と言った様な教会子弟が、ある訳ですけれどもです。やはり先生が、篤信じゃないからだと思うですね。本当に神様に惚れ込んでござらんからだと思うです。私共の場合はおかげを頂いて、そこん所がです。篤信と迄はいかんでしょうけれども、神様に惚れ込んでおる。一にも神様二にも神様、三にも神様という生き方をするからです。子供達も右、左、言う事もどうも要らん。
 矢張り信心についてくるのじゃないでしょうか。所謂真の信者を一つ、お互い目指させて貰わにゃいけません。それには私共がどうでも、祈れ薬れという信心にならにゃいけません。所が私共の場合皆さんの場合です、薬れ祈れという信心が、強いのではなかろうか。いいや私は何かの時には、神様を先にお願いしてからしよりますと、言うけれども、そういう意味ではない。もっとその奥の意味合いの、薬れ祈れ又は祈れ薬れという事を聞いて頂きましたですね。
 一つ篤信を目指さなければいけません。問題が起きたから、やぁやぁ言うてお参りをすると言うのではなくてです。もう問題の起きる暇がないほどしのです、信心を頂きたいです。もうそこには信心の楽しみ、信心の有難さだけがあるのです。これに徳を受けられないはずは、絶対ないでしょうね。篤信を目指させて貰わなきゃいかん。所謂真の信心を、真の信者を目指させて頂かねばいけません。
   どうぞ。